由緒・歴史

持統天皇と倭舞

西暦七世紀、天武天皇のあとを継がれた持統天皇は朱鳥四年(690年)9月、紀伊の国(和歌山)を視察されたのち都への帰途二十一日、網曳御厨前身の漁場に立ち寄られ、この地の民の地引き網をご覧になりました。

かって推古天皇によってその基礎を置かれたという漁場ですが、壬申の乱等の長引く戦乱で荒廃したため、持統天皇は漁場の再整備と拡張を命じられ、翌二十二日天皇は現在の高龗神社で倭舞(神楽)を催されました。

九月二十二日はその後高龗神社の大祭日となり、この神楽は長い間村人たちにより継承されてきました。

その後明治の変動期にその伝統は途絶え、今は倭舞に使われた面などの一部が村の旧家に残されています。

舵を帆にした宝船

脇浜戎大社は脇浜・近木崎の戎社と加治村の嘉冶穂神社を合祀していますが、これは嘉冶穂神社にまつわる伝説です。

ある時沖合いに漁に出た船が、途中暴風雨に遭い帆を吹き飛ばされ皆途方にくれていたところ、『舵を帆にせよ』との戎神のご託宣があり、お告げのままに舵を帆ににして立ててみると、にわかに風雨おさまり一同大喜びで浜に帰りついた、と嘉冶穂神社の名前の由来となっためずらしくもめでたい物語が伝えられています。

船の舵を帆にして風雨をおさめられた戎様。人生航路の荒波を鎮め、無事目的地に運んでくださる『舵帆の守護』の伝説は千年の時を越えて、現在も脇浜戎信仰に生き続けています。

参詣のしおり